志村けん「若き日の仰天ヤンチャ伝説」(引用元 日刊大衆)

Hisasi 2020/11/06 告発 コメント

国民的番組を作り上げた仕掛人の証言など、天才喜劇人の無名時代のエピソードを大公開!

 テレビの追悼番組などで語られていない、さん(享年70=以下、一部敬称略)にまつわる秘話はまだまだある。ザ・を極めて間近で見ていた人物が明かした、下積み時代の仰天エピソード満載の本があったのだ。その本とは『8時だョ!全員集合伝説』。今から約21年前、弊社よりリリースされた。著者は居作昌果氏。2005年に71歳で他界した同氏は、『8時だョ!全員集合』(TBS系)のプロデューサーであり、(享年72)らザ・ドリフターズのメンバーとともに、怪物番組を作り上げた人物だ。同書では、志村がヤンチャ盛りだった若き日の逸話が、いくつも披露されている。ここでは、その一部を抜粋して紹介し、あらためて愛すべき天才コメディアンの死を悼みたい。

〈東村山在住のコメディアン志望の高校生志村けん(本名・康徳)は、なぜかいかりや長介を自分の師匠と一方的に決めていた〉 『〜全員集合伝説』には、そう記されている(以下太字、同書よりの引用)。

 68年、まだ『〜全員集合』スタート前のこと。その頃のドリフについて、江戸川大学教授で、お笑い評論家の西条昇氏はこのように語る。「ドリフがの前座をやったのが66年ですよね。その後ぐらいから、『大正テレビ寄席』(NET系=現・テレビ朝日)にコミックバンドとして出演していました。当時のドリフは、すでに大ブームを起こしていたコント55号を追いかけつつ、ポスト・クレージーキャッツとして期待されている存在だったんです」

 志村は、55号への弟子入りも考えたが、音楽が好きなこともあり、ドリフに心ひかれたようだ。〈志村は、直談判しようと、いかりや家へ押しかけた。留守だと言われ、家の前で待つことにした。夕方から雪が降り始めて寒い夜だったそうである〉

 高校卒業直前の2月だった。志村少年は、震えながら、その家の主の帰りを待った。夜も更け、23時頃にようやく帰ってきたいかりやは、〈ボーヤで苦労してみる気があるのなら〉と少年を受け入れた。“ボーヤ”とは、バンドボーイ兼付き人のような立場だ。

 後日、呼び出された志村は、翌日から巡業に出るというドリフのメンバーに紹介された。高校をきちんと卒業してから、ボーヤ修業を始めるつもりだったが……。〈いかりやのカミナリが落ちた。『バカなことを言うな、やる気があるのなら、今日からやれ!』〉

 翌日から、巡業に帯同することになった。〈巡業地の公演が終わると、メンバーはその地に宿泊し、翌朝の列車で次の巡業地に向かう。だが、ボーヤたちは公演終了後、メンバーの身の回りの世話を終え、楽器から舞台の道具類まで全部を片付け、それをマイクロバスに詰め込み、その夜のうちに、次の巡業地に先乗りするのだ〉

■『8時だョ!全員集合』放送開始

 志村が過酷なボーヤ生活を続けて1年半がたった69年10月から『〜全員集合』が放送開始。ドリフは、いよいよ国民的スターへの階段をのぼることになるが、19歳の志村の気持ちは晴れなかった。〈コメディアンになるために苦労しているはずなのに、そのチャンスも、きっかけもみつからない。師と選んだいかりやも、何も言ってくれない。あせり始めた血気盛んな志村は、ボーヤ仲間を誘ってドリフを離れ、旗揚げしようと考えた〉

 なんと、志村は脱走してしまうのだ。〈ところが、コンビで旗揚げするつもりだった仲間のボーヤが、いつまで待っても一向に脱走してこない〉

 相棒候補の翻意により、志村はやむなく他の仕事で生活費を稼ぐことに。そんな生活がしばらく続いた。だが、それでは、なんのために脱走したか分からない。そこで……。〈振り出しに戻るしかないと、志村はふたたびドリフターズのボーヤ生活に戻る決心をした〉

 なんとも、肝が据わっているというか、得な性格だというか……。だが、そんな志村とて、いかりやに再び直談判する勇気はなかった。〈相談に乗ってくれそうなのはである。神妙な顔つきで加藤の家を訪ねた志村は、いかりやへの仲介を頼み込んだ〉

 その場面を想像すると、まるでコントの1シーンのようだが、志村は真剣であり、加藤茶(77)は、ハゲヅラを被っておらず、“ひっきしっ!”とクシャミをすることもなかった。結局、志村は復帰を許され、しかも、東村山(東京の多摩地域)からの通いは大変だからと、加藤宅に、ちゃっかり居候することになった。〈『あんな楽な時代はなかった』と志村は言う。それもそのはずである。生活費は安上がりだし、仕事場は一緒なのだから、加藤についていけばいい。おまけに志村は運転免許を持っていない。(中略)加藤の運転する車に行き帰り乗せてもらうことになる。当代随一の人気者加藤茶を運転手に、その隣に名もないボーヤ志村けんが、ふんぞり返って乗っていた毎日だったのである〉

 まるで、バカ殿のような日々ではないか。〈『それだけじゃないんだよ、家へ帰って気がついたら、あいつ俺より先に、風呂へ入っちゃんてるんだよ。まったく、どっちがボーヤだかわかんなかったよ』と加藤は笑う〉

■「マックボンボン」というコンビ名で

 やがて志村は、一緒に脱走するはずだったボーヤ・井山淳(75)とコントを作り始めた。すると関係者に認められ、「マックボンボン」というコンビ名で、ドリフの前座などで、舞台に上がるチャンスを得た。前出の西条氏は子ども時代に、その生のステージを観た記憶があるという。「普通、ツッコミは相方を手で張り倒しますが、志村さんは立ったまま足を上げて、足の裏で、ほっぺたを張り倒していたんです。の16文キックより、スピードがあるイメージですね。それを、よく覚えています」

 誰もやったことのないネタをやり続け、1年半が経過すると、テレビ出演のチャンスが来た。ところが……。〈いかりやは、烈火のごとく怒った。(中略)ほんの一握りしか持ちネタのないコンビが、テレビでもみくちゃにされたら、あっという間に潰されてしまう〉

 だが、テレビ出演の企画は、すでに断れない段階まで進んでいた。番組名は『ぎんぎら!ボンボン!』(日本テレビ系)。しかし、これは大きくコケた。〈いかりやの猛反対は正しかった。マックボンボンは沈んでいった〉

 低視聴率から、番組は3か月で終了となったのだ。〈このショックでマックボンボンの片棒の井山淳が蒸発してしまった。(中略)志村は、マックボンボンを維持していくために、ドリフターズのボーヤのなかから福田正夫を選び、新しい相棒に据えた〉

 ところが、このコンビはうまくいかず、「マックボン」は消滅。それでも夢を諦めきれなかった志村は、どうしたのか?〈こうなったら、もう1度、ボーヤから始めるしかない。出直す覚悟を決めた志村は、いかりやを訪ねた〉

■荒井注の脱退で正式メンバーになったが

 このとき、『〜全員集合』の高視聴率で不動の人気を獲得していたドリフに、一つの事件が起きていた。荒井注(享年71)が脱退を希望していたのだ。「当時は、カトちゃんの『ちょっとだけよ』とか、荒井さんの『ディス イズ ア ペン』が大人気で、小学生は全員が『〜全員集合』を見ていた。そんな時代に荒井さんが抜けるとなって、『どうなっちゃうんだろう?』と、みんな思っていたんですね」(西条氏)

 そんなタイミングだったことから、いかりやは、志村を見習いメンバーとして『〜全員集合』に出演させることにしたのだ。73年末のことだった。〈志村けんがコメディアンとして本当に苦労するのは、これからの2年間である。(中略)必死になればなるほど、客の反応は冷たく、空振りに続く空振りだった〉

 正式メンバーになってからも状況は変わらず。その間、『〜全員集合』の視聴率は、裏番組の『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ系)に抜かれた。〈この『欽ドン』攻勢を打ち破ったのは、なんとそれまで長いトンネルを抜けきれなかった志村である〉

 76年3月6日、「少年少女合唱団」のコーナーは、ゲストが出身地の民謡を披露するという趣向だった。『俺にも歌わせろ』と志村が出てくる。『お前はどこの出身だ』といかりや。『俺は東村山だよ』。『知らねえなあ、そんなとこ。だいたい、そんな東村山なんてところに、民謡なんてあるわけないだろ』『それがあるの、ちゃんとある』〉

 そして志村が披露した『東村山音頭』は、会場に爆笑を生んだ。〈ドリフターズでボーヤ生活を始めてから8年。ようやくコメディアンとして世に認められたわけである〉

 以後、全国のお茶の間が毎週、『東村山音頭』を心待ちにするようになった。志村が、次にブレイクさせたのが、加藤とのコンビによる「ヒゲダンス」である。これは、宴会芸としても重宝された。〈79年暮れから新年にかけて、あらゆる催し物を総なめにした印象があった〉

 ところが、放送されていたのは意外に短く、2年に満たない。〈爆発的ヒットで一番苦しまなければならなかったのは、本人たちだった〉

「ヒゲダンス」は、踊るだけではなく、毎週、曲芸的なパフォーマンスを披露するのが決まりだった。そこで毎回、何をやるかを考え、その芸をマスターするのが一苦労だったのだ。〈会議で絞ったアイデアをベースに、志村と加藤が汗みどろで実験を繰り返す〉

 さすがに長くは続けられなかったようだ。しかし、その直後に今度は、「カラスの勝手でしょ」を大流行させるのだからすごい。『〜全員集合伝説』を読むと、志村がお笑いに対しては常に真剣だったことがよく分かる。

 そして、それは大御所になっても変わらなかったようだ。西条氏は、ナンセンスなコントに一生こだわり続けていた志村のプロ意識の高さについて、こうコメントする。「後輩タレントを連れて飲みに行っていたのも、番組や舞台での共演を前提にして、呼吸を合わせていた部分もあった。また、新鮮な力になってくれる人を常に探していた。すべて、コントにつながっていたんだと思います」

 プロ意識の塊だった志村。今頃はあの世で、いかりやや居作プロデューサーと再会し、新しいコント番組の企画を思案中かもしれない。

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