志村けん=2007年撮影 出典: 朝日新聞
ザ・ドリフターズに途中加入し、『8時だョ!全員集合』の主力メンバーとして活躍。その後も「だいじょうぶだぁ」「アイーン」「だっふんだ!!」など数々のギャグを生み出し、名実ともにお笑い界の頂点を極めた。しかし、そんな志村にも3年半におよぶ低迷期があった。笑いにこだわり続けた志村が軟化し、バラエティー番組とコントの両輪で返り咲いた軌跡をたどる。(ライター・鈴木旭)
冠番組『だいじょうぶだぁ』で頂点を極める
志村けんと言えば、1974年4月にザ・ドリフターズの正式メンバーとなって以降、『8時だョ!全員集合』(TBS系)の第二期黄金時代を支えたエースとして知られている。
同番組が終了してからも、メンバーの加藤茶とタッグを組んだ『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(前・同局)で人気は継続。1987年からは冠番組『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)がスタートするなど、この時期にコメディアンとして名実ともに頂点を極めたと言っていい。
数々の名物キャラクターを生み出し、志村は常に第一線で活躍し続けた。とはいえ、なぜここまでアイデアが尽きなかったのだろうか。それは、異常なまでの探究心があったからだ。
コントを演ずる志村けん。「いったんメークをしちゃうとね、不思議に僕は、何でも出来ちゃうんですよね」=1988年5月出典: 朝日新聞
あらゆるジャンルに精通した笑い
「ヒゲダンス」のBGMは、1970年代当時ソウルミュージックに傾倒していた志村のセンスによって音源化されている。
また、コント「変なおじさん」の「変なおじさん、だから、変なおじさん♪」というフレーズは、沖縄のミュージシャン「喜納昌吉&チャンプルーズ」の「ハイサイおじさん」の出だしを奇妙な踊りとともにアレンジしたものだ。
「だっふんだ!!」というオチのセリフは上方落語の伝説的なはなし家 ・故桂枝雀が得意としたネタ「ちしゃ医者」の大げさなせき払い に着目したもの。
「歌舞伎家族」「歌舞伎ラーメン」といったコントでは、本家が見てもしっかりとした歌舞伎の型や言い回しが使用されているそうだ (2016年1月に放送の『ダウンタウンなう』(フジテレビ系)より。四代目市川猿之助が『ドリフ大爆笑』(同局)のコントに触れた場面) 。
また、多感な時期にアメリカのコメディー映画を見て おり、とくにジェリー・ルイスやマルクス兄弟からの影響を色濃く受けている。
動きで笑わせるドタバタ劇や顔芸は、ここが原点と言っていい。また、2006年からスタートした舞台「志村魂」では、昭和の喜劇王・藤山寛美が演じた松竹新喜劇の名作喜劇に挑んでいる。
こうして見ただけでも、洋楽、沖縄民謡、歌舞伎、落語、洋画コメディー、松竹新喜劇など、ありとあらゆるジャンルに精通していたことが分かる。アイデアが豊富だったのは、常にネタになるものを探して足を運んでいたからなのだ。
表情の研究をする藤山寛美=1966年12月、大阪・中座で出典: 朝日新聞
「志村けんが死んだ」が広まった理由
そんな志村にも、実は低迷期がある。具体的に言うと、『だいじょうぶだぁ』終了後の1994年から1997年前半あたりまでの約3年半だ。若者を中心に、“志村のコントは古い”という扱いを受けていた。
お笑いの流れを見ると、実にわかりやすい。
1990年代前半は「お笑い第三世代」と呼ばれる、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンが台頭し、テレビのゴールデンタイムを席巻した。
その後、ナインティナインらを中心とした『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)、ロンドンブーツ1号2号の『ぷらちなロンドンブーツ』(テレビ朝日系)などがスタートして、企画性の高いゲームやロケが若者から支持を集めるようになった。
こうした潮流の中で、コントにこだわってきた志村も対応を余儀なくされた。
『志村けんはいかがでしょう』(フジテレビ系・1993年10月~1995年9月終了)では、舞台コントを続けながらもクイズコーナーを設けるなどしてリニューアルを施す。しかし、視聴率低迷は免れず、放送日や番組名を変更するなど苦戦を強いられた。
ついには、後続番組『けんちゃんのオーマイゴッド』(同局・1996年4月~同年9月終了)の打ち切りが決まってゴールデンから撤退。
ここから、つい最近まで放送されていた『志村でナイト』まで続く、深夜のコント番組がスタートした。「志村が死んだ」といううわさ が世間に広まったのもこの時期である。